JAPONisme Vol.18 – 2018年夏
2018年7月1日発行 第18号
- こころの道標(みちしるべ) 大谷暢順(ジャポニスム振興会会長)
- キーワードで辿る吉崎の蓮如上人 金龍静
- 吉崎へ -蓮如上人の足跡を辿る
- 特別対談 蓮如イスム一考察 アンチ悪人正機説 大谷暢順×山折哲雄
- 吉崎夕景
- お知らせ
- 知ると楽しい! ちょこっとコラム 吉崎七不思議
- ジャポニスム・六条山通信 花と森の本願寺〈十〉 山折哲雄(ジャポニスム振興会特別顧問)
- 六条山のたから筥⑥
今号の試し読み:キーワードで辿る吉崎の蓮如上人 金龍静
《吉崎》「虎狼・野干ノスミカ」へ 文明三年(一四七一)、本願寺第八代蓮如上人は越前の吉崎(あわら市)へ赴いた。七月末より、吉崎の山頂で坊舎の造作が開始された。その山は、標高三十二mほどで、三方を北潟湖に囲まれた小丘である。「御文」では、ここを「虎狼・野干ノスミカ」と記しており、支配者側の権限が及ばない「無主の地」であった。坊舎から加賀国境までは、わずか数百m。越前・加賀の大名権力の圧力が最も弱い国境の地でもあった。
《寺内》寺が建ち、人が集まり、町ができ― 坊舎の大きさは、三間・四間・六間四面とも言われている。親鸞聖人の祖像は、近江近松坊(大津市)に残されており、御影堂は建てられていない。古絵図を見ると、本坊境内(屋敷)と坂の中腹にある「内寺内」は西門で隔てられていて、内寺内の中を馬場大路が走り、それに沿って九棟の多屋が点在している。多屋とは、上人側近や有力坊主衆の宿所をいう。内寺内と麓(外寺内に相当)とは、東門・南大門・北大門で隔てられている。東門の東には、春日明神の鳥居と集落(本来の吉崎村)が描かれている。
境内・内寺内・外寺内の三層構造は、のちの山科・大坂の両本願寺に踏襲される。門の存在に着目すると、寺内は屋敷内・家内であり、それが外延化したものということになる。戦国期の畿内各地には、宗主一族の一門寺院や、宗主兼帯の御坊が、次々と建てられた。中には、数町歩におよぶ寺内を持つところもあった。これらの寺内は、民衆の立入りを禁じた諸宗派の寺院の境内とは違い、多くの人々に開放され、商工業が育っていくこととなる。このような戦国期寺内・寺内町の原型をなすのが、吉崎であった。
《御文》隔てなくわかるよう、伝わるよう 寛正六年(一四六五)、東山大谷本願寺は比叡山の勢力に攻撃され、破却された。法難の終息に際して、上人は、居住地(東山大谷)からの退去、住持の地位の放棄(隠居)、賠償などを受諾した。しかし吉崎に居を定めた上人は、ただちに、新天地開教に向けての表白を発する。すなわち文明三年七月には、計四種類の御文を矢継ぎばやに作成し、のちに『五帖御文』の巻頭を飾ることとなる。以後も作成は続き、吉崎滞在期間中の御文は、年次の明確な百九十余点の御文のうち、五割弱を占めるほどである。
御文とは、阿弥陀如来と親鸞聖人の教説が簡潔に和語で記された短文の公開聖教を言う。従来の日本仏教史のなかで、公開例はなく、人々は初めて仏説・教説に触れうることとなった。例えば、御文の中で幾度も記されている「光明摂取論」でいうと、難解な漢語経典を引用せず、「弥陀如来、光明を放ちて、その身を摂取したまう」と和語で語られる。自らの存在を誰からも期待されることのなかった多くの人々は、「つつまれ、まもられ、はぐくまれているこの私」という存在感を、はじめていだき出したのである。
《六字名号》手を合わせる日々のはじまり 吉崎時代から大量発布され出したものに、御文の他に、草書六字名号がある。現在でも北陸一帯の各集落には、あちこちに散見されるが、求める人にはすべからく授与すべきとの上人の意志だったのだろう。名号を拝受した人々は、家屋内の壁や柱に掛けて、手を合わせる日々を送りはじめた。四~五十年の人生にあって、苦しさ、辛さ、諦め、絶望の心の片隅に、尊い思いをも合わせ持つ日々を歩みはじめたのである。安全に(鎮護国家)、豊かに(五穀豊穣)、楽しく長く(現世利益)、厳格に(持戒)生きる道の他に、尊い心をあわせ持って自らの死を受け入れる人生の始まり。これは、千数百年の日本人の精神史の流れの中で、大きな画期をなすものであったに違いない。
《文明一揆》信心の高まりと昂り 上人の吉崎滞在中は、北陸全体が応仁・文明の乱の真っ最中で、それぞれの武士勢力が覇権を競いあっていた。しかし多くの人々は、その種の覇権戦に参加せず、郷土安穏を祈念し続けてきた既存の諸宗教にも与同せず、戦乱の合間をぬって、続々と吉崎へ群参し出すのであった。長期に及ぶ戦乱の被害者として、幾多の辛苦を味わい続けてきたからなのだろう。
各国の武士たちや既成の宗教勢力は、吉崎の上人と群参する一向衆(浄土真宗の人々の古称)を警戒し、強く反発し、種々の妨害をくわだて出した。文明六年(一四七四)加賀守護方の一方からの協力要請があり、北陸最初の一向一揆が勃発。激戦の末、反対派守護勢が壊滅した。この一揆に加わった額田惣庄(加賀市)の人々は、この一揆を「当国之一乱は、仏法の当敵を責め失せる廉直之弓箭」と言い切っている。権力者に徳政・反省を求める世俗的・政治的な戦いではなく、仏敵に対する廉直なる戦いとの認識である。
翌文明七年、同じ勝者側の間で、すなわち守護方の一部と吉崎に参ずる一向衆の一部との間で、戦いが勃発した。上人はそれを機に、四年にわたる吉崎滞在に終止符をうち、畿内へ戻っていった。あるいは寛正法難の時と同じく、居住地退去という作法で、終戦を願ったのであろうか。ともあれ、文明六・七年一揆は、無名の「老・長・坊主」等の主導する「村の武力」が初めて歴史上に登場する、新時代の幕あけを告げるものとなった。以後の北陸一帯は、一向衆を中心としたまれに見る一世紀を歩んで行くこととなる。
以上、わずか数年間であったが、真宗八百年の歴史の中でも、一大画期をなす吉崎時代であった。さらには北陸の歴史にあるいは日本人の精神史に、深い意味を付与した吉崎時代でもあった。
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