JAPONismeVol.39-2026年春「いただきます、の文化」
2026年3月1日発行 第39号
- 「本願寺法主 大谷暢順の超・仏教書」大谷暢順
- いただきます と「命の授業」 黒田恭史
- ももちゃん一家のほろろん滞在記
- いただきます、って何だ!? 釈撤宗
- お知らせ ジャポニスム倶楽部
- ジャポニスム・六条山通信 花と森の本願寺〈三十一〉山折哲雄
- 六条山のたから筥㉖
今号の試し読み:いただきます と「命の授業」 黒田恭史 談
生き続けることは、命をいただくこと。
渾身の「命の授業」は、妻夫木聡さん主演の映画『ブタがいた教室』として全国公開され大きな話題に。
その原作者、黒田恭史さんに、子どもたちとの日々や、これからの命の教育について語っていただきました。
命のつながりを伝えたい
今から30年あまり前、私は新任教員として赴任した小学4年生のクラスで、1頭の豚を飼い、3年間育て、その豚を飼育し続けるか、食べる(食肉センターへ送る)かを決める、という授業を行いました。
命の問題を児童の教育現場で扱う場合、当然、「命は大事ですよ」という方向に行き、それはそれで大事なことですが、生き物ですから「生」の先には必ず「死」がある。けれど、そこは往々にしてアンタッチャブル。
実際、非常に難しい問題だと思いますし、何より、中・高学年とはいえ小学生に、「死」そのものを直接問う、伝えることには無理があります。そんな中で、命の教育をどのようにするのがいいか、と思ったとき、飼育活動をまずはやろう、と。そこで「命がつながっている」というところを、子どもたちにしっかり体験してほしい、という思いでした。
我々は食べなくては自分の命をつないでいくことができない。生き続けるということは、必ず、他の命をいただいている。彼らは小学生ですから、誰かに用意してもらって、それをいただきながら365日生きている。とはいえ飽食の時代、そのことに日々、感謝して食べなさい、いただきなさい、と言ったところで、子どもの心にはそう簡単には届かない。それならむしろ、飼育を通して、その(豚の)命をつなげるために、自分たちはこれだけの努力をしてるんだ、ということを体験させたほうが、「自分たちもまた、そうして生かしてもらっている」ことがわかるんじゃないか、と考えたわけです。
若輩の向こう見ずな新任教師だからできたんですね(笑)。当時は地域も、学校も開かれた時代、なかでも勤務した大阪府豊能町は自然豊かなところで「自然の中で子育てをしたい」と都会から移住する家族も多かった。そんな環境で、学校や保護者の方の理解が得やすかったのも追い風となりました。今とはいろんな意味で状況が違います。
命は、多数決じゃない
意気揚々、実践を開始したものの、ゴールが見えない中で、子どもたちと走り続けた数年は、決して「得難い経験」とか「感動」という言葉だけで括れるものではありませんでした。とくに6年生の卒業前、豚を下級生のクラスに託して飼育を続けてもらうか、食肉センターへ送るか、32人の児童の意見が16対16に分かれ、最後には「飼育」で意見がまとまったものを、私の独断で食肉センター送りに覆した。これは無謀な実践を開始した教師として、私なりに考えに考え抜いた責任の引き受け方であったつもりですが、この結論に深く傷ついた子がいたのは確かですし、もう豚肉は食べない、と言った子もいました。
当時の顛末は、『豚のPちゃんと32人の小学生』という自著にまとめ、それを原作に『ブタがいた教室』という映画も制作されました。TVのドキュメンタリー番組にもなり、それが放映された時には、賛同や番組賞受賞等の評価とともに、激烈な批判も受けました。また最近、あらためて豚の飼育の実践がネットのニュースで取り上げられましたが、そこでもアクセスランキング1位となり賛否両論のコメントが炎上しました。
それほどに「命」の問題というのは、人々にとって重く、かつ一筋縄ではいかない、個人、個性の問題であるということを痛感しています。
当時の子どもたちも、小学4年生から6年生の3年間、皆で豚を飼育しながら、命に対する考え方は一人一人異なりました。たとえ10年ほどとはいえ、彼らなりの人生経験や家族の問題など、いろんなものが凝縮されて個々の考えが作られている。それは当然であるはずなのに、「こんなにも違うんだ」という現実を目の当たりにして、大人の私のほうが学ばされることが多かった。彼らとは成人式に再会し、今も数人とはつながりのある中で「自分の子どもにもああいう経験をさせたい」、「今なら食べて命をつなぐという考えがわかる」などの声も聞きますが、あの時の私の判断が正しかったか否か、それはわからない。今後も問い続けていくと思います。
いっぽうで、彼らが「豚を飼う」ことを通して、自身の生き方を考え、自分自身が命をどう考えるか、ということに否応なく対峙した──、生きさせてもらっている矛盾も含め、命を感じ、命への思いを自らの内側から掘り出していけたことは大きな感動であり、私の目指した命の教育の、ひとつの在り方ではありました。
私の専門は数学ですが、数学の一番すごいところは、多数決で測れないこと。99%が否定したとしても、真理に近づいた者が正しいんです。そして命の問題もまた、多数決ではない。私の中で「命」と「数学」というのは大きな共通項があり、共存しています。。
やり方は、必ずある
教員の働き方改革や、学校のセキュリティー強化で、今や同じことはできないし、すべきとも思いません。しかし「命」について学ぶことの重要性は、一層深刻に感じますし、それは学校教育として為されるべき。家庭教育も大切ですが、それを各家庭に委ねて反応を期待するには無理があり、できる家庭とできない家庭も出てくる。そこはやっぱり、学校等の公的機関が、もう少し頑張らないと。
アプローチの方法は、豚を飼った頃より現代のほうが潤沢だと私は思います。飼育は無理でも、たとえば生き物がどのようにして食べ物になるのか、食肉センターの見学はじめ、畜産農家や酪農家の方々への取材も、今はオンラインでもできます。
加えて昨今、大量生産、大量消費の中で物質的に贅沢をして……といった生き方に虚しさを感じる人の割合は、確実に増えている。農業や畜産業などでも原点回帰というか、産業革命以降、人間の傲慢で破壊し続けてきた環境に目を向け、命や自然に向き合う生産活動を標榜する人たちも増えています。だから、むしろ今はチャンスです。コーディネート次第で、いくらでも授業を充実させていく可能性はあるでしょう。
日本のアドバンテージ
そしてもう1つ。「食」と「命」の循環を意識するにあたって、我々日本人には、大きなアドバンテージがあるとも思っています。
その利点とは、森羅万象に命が宿ると考える日本の精神性。「いただきます」という言葉に当てはまる外国語がない、とのことですが、それはやはり文化の違いですよね。私は宗教は詳しくないですが、たとえばキリスト教の場合、人々はいただいた「食」、「命」に感謝するというより、それをもたらしてくれた「神」に感謝を捧げているのではないか、と想像します。
いっぽう日本には、石にも、水にも「命」を見出し、そこに感謝して「いただきます」「ありがたい」と思える心の背景がある。社会が便利になり、西洋化も進んで、そこが揺らぎかけてはいるけれど──。私だって便利な生活を享受して、ファストフードも食べるわけですが(笑)。でも、ここまで地球環境が傷んできていることを考えると、もう一度、我々は日本古来の精神性を思い起こし、畏敬の念というのかな、人間がどうしたって太刀打ちできない自然への畏れや敬意を取り戻す必要がある。そういうことを発信するのに、日本は、けっこう適した国だと思いますよ。
そして今、「日本食」が、世界から注目されているのもまた、チャンスです。インバウンドの人たち、高いお金を払って、いいところで日本食、食べてますよね(笑)。そこで食べ物だけを提供するのではなく、文化も提供するという姿勢が必要だと思う。「日本食を味わうなら、その背景にある日本の文化も覚えてくださいね」と、しっかり発信すればいいんです。偉そうにすることはありませんが、誇れる文化があるんですから、そこは堂々と! 自国の文化を再認識し、胸を張る。と同時に、自然に対しては謙虚さをわきまえる。大人たちがそういう姿勢に立ち返ることもまた、「命の循環」、「いただいて生かされる」ことへの意識を育む大きなポイントでしょう。
「いただきます」を言う、言わないは選択の自由。相手が大人なら「どうぞ、そうやって生きていってください」と思う。けれど、子どもたちに向けては責任があります。ここの意識は、他の様々な場面で物事をどう捉えるか、そこにも全てつながってくるので、おろそかにせず、かと言って深刻ぶることもなく、伝え方を工夫していければいいですね。頑張りましょう!
黒田恭史(くろだ やすふみ)
博士(人間科学)
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