JAPONisme Vol.17 – 2018年春
2018年4月1日発行 第17号
- こころの道標(みちしるべ) 大谷暢順(ジャポニスム振興会会長)
- 暦でひらく、季節のとびら。
- 暮らしと暦 時季を知る 感じる 高月美樹
- 季節のめぐりを知る二十四節気、七十二候
- 旧暦ミニ講座
- 科学と暦 古代から明治の改暦まで 日本の暦の歩み 嘉数次人
- お知らせ
- ジャポニスム・六条山通信 花と森の本願寺〈九〉 山折哲雄(ジャポニスム振興会特別顧問)
- 六条山のたから筥⑤
今号の試し読み:科学と暦 古代から明治の改暦まで 日本の暦の歩み 嘉数次人
改暦のなかった八〇〇年間
千数百年にわたるわが国の暦の歴史のなかで、現行の新暦が採用された年月は、ほんの百五十年足らず。ではそれ以前の暦、また天文学の歩みは、どのようなものだったのだろう?
〈嘉数氏・談〉「わが国の記録上、暦に関する記事が最初に登場するのは『日本書紀』。五五三(欽明十四)年に朝廷が百済に医、易、暦の博士の派遣を要請し、翌年に暦博士固徳王保孫が来朝したとあります。また六〇二(推古十)年に百済の僧観勒が来朝し、はじめて暦日を用いるという記事が見えますから、この頃に天文学が本格的にスタートしたのでしょう。さらに六七五(天武三)年には天武天皇がはじめて占星台をつくらせた──、ということは天文現象の観測もされていたようですね。それ以前の様子は資料がなく不明ですが、体系的な天文学は、中国の暦学が朝鮮半島経由で輸入されて始まったと考えられています」
ちょうど仏教とともに大陸の暦文化も渡来した、という感じだろうか。ただ、そこから暫くは天文学という分野が確立されていく段階で、持統天皇の時代に、ようやく暦施行が記録として残るという。
〈嘉数〉「日本では古代から朝廷に陰陽寮という役所が設置され、暦の作成・発行を司りました。用いられる暦は太陰太陽暦と呼ばれるもので、月の満ち欠けで日付けを決め、太陽の運動(二十四節気)で各月の名称を決めるしくみです。このしくみに則って正確な暦をつくるには、天体の動きを観測して把握し、将来の天象を計算で予測する精密な知識が要るのですが、長らく日本ではそこまでのレベルの科学技術がなかった。そこで中国で作られた暦計算法(暦法)を輸入して、そのとおりに計算して毎年の暦を作っていたんです」
旧暦、和暦といった言葉から、つい私たちは日本古来の暦があるように思いがちだ。まして陰陽寮などと聞けば、陰陽師として知られる安倍晴明のイメージなども重なって、ますます「本朝」の感が高まる。が、旧暦のしくみはあくまで渡来のもの。もちろん、暦のなかには「暦註」と呼ばれる、平たく言うところの〝お日柄〟に関わるさまざまなスペックも含まれ、その解釈には日本の感性も加味されたろうし、貴賤上下、あらゆる人々の営みを左右したと思われる。が、ここではその側面は置き、しくみにフォーカスし整理すると──。
渡来以降、日本の暦は中国の暦法をそのまま流用する時代が長く続く。しかも平安初期、八六二(貞観四)年に採用された「宣明暦」は、徳川五代将軍綱吉の頃まで、じつに八〇〇年余り、改暦されずに使われ続けたという。
〈嘉数〉「すぐれた科学技術をもつ中国の暦法といえど完璧ではないので、何年か使ううちに天象とズレが生じてくる。すると新しい暦に改める、ということが行われるのが常でした。日本では必要に応じて中国から新しい暦法を輸入していたのですが、平安時代の宣明暦施行後は、遣唐使も途絶え、学問の停滞、政治面、さまざまな要素が重なって改暦が一度も行われないまま江戸時代を迎えます。途中、安土桃山時代に、信長が地球儀を献上されたエピソードに見られるような、イエズス会の宣教師から南蛮天文学が伝えられるといった展開もあるものの、禁教令で衰退し発展をみませんでした。そういうなかで、冬至の日付けが二日も遅れる、というふうにズレが顕著になってきていた。これは見過ごせない問題でもある。そこで登場するのが、映画にもされた『天地明察』で多くの人に知られるようになった渋川春海です。春海は碁方といって、囲碁で幕府に仕える仕事をしながら、アマチュアとして暦の研究を行っていました。その中で、中国の授時暦を、日本の天象に合うように、両国間の経度差を加味するなどして改良し、新しい暦計算法を作りあげます。それが採用されて一六八五(貞享二)年、貞享暦の施行が実現していくわけです」
将軍吉宗と西洋天文学
渋川春海の貞享暦以降、日本の天文学の分野は一気に活気づく。そして、そんな気運を強力に後押ししたのが、徳川八代将軍吉宗であったと嘉数さんは語る。
〈嘉数〉「渋川春海の時代にも、すでに西洋天文学の知識は、入るには入ってきています。しかし幕府が海外からの書物の輸入を規制していたので、ごくわずかな情報しかなかった。その規制を緩めて「漢訳西洋天文書(西洋天文学を紹介した中国の書物群)」の輸入を命じ、より高度な暦の改革を目指したのが吉宗だったんです。どうもこの人は科学好きだったようで、理系のセンスを物語るエピソードなんかも残ってますね」
そのように一国のトップが情熱を注ぎ改暦事業に乗り出したが、いかんせん、吉宗の存命中にその意に応えて才を発揮する人材は現われず、宝暦の改暦(一七五五)は失策に終わったという。しかし、そうした吉宗の向学姿勢は時を置いて大坂で実を結ぶ。吉宗が輸入を命じた天文の専門書が各地の研究者の手に渡るようになり、麻田剛立、間重富、高橋至時といった大坂の研究者たちが目覚しい成果をあげる。それが西洋天文学を取り入れた寛政の改暦(一七九八)へと繋がってゆくのだ。折しも、往時の大坂は、本草学はじめ諸学に通じ、また内外の情報や珍しい物を広く集めて、後に浪速の知の巨人と評される木村蒹葭堂を中心に、文化の花開いた頃であった。
そして幕末も近い一八四四(天保十五)年、洋書を通じて先進知識を取り入れた天保暦が施行されるも、ほどなく明治維新となり、一八七三(明治六)年、暦は新暦(太陽暦)へ。ここに天保暦は、わが国最後の太陰太陽暦の暦法となり、公的な場からは姿を消すことになる。
改暦の陰に、財政難!?
暦の渡来以降、千数百年。時代による温度差はありながらも、多くの研究者たちに磨きあげられ、人々の暮らしの基盤となってきた太陰太陽暦。その時間軸から、これまで全く馴染みのない太陽暦へ。移行はさぞ大ごとだったろうと思いきや、この歴史的改暦は、発布から二十日あまりの短期間で、怒濤のように実施。しかも、その劇的改暦の陰には、明治政府の財政難を救う目的もあったとか……。
〈嘉数〉「新暦への改暦の引き金に財政難があった、と言われています。開国して以降、太陰太陽暦による日付と、太陽暦による日付とのズレが西欧諸国との交渉や取引の際に不便をもたらしていたため、太陽暦採用の必要性は認識されていたわけです。ただ、改暦をいつにするかというのは決めかねていた。それを明治五年の十一月になって、やおら、来月から太陽暦にします、と布告したのには、旧暦のままでいくと明治六年は閏月があるから。つまり一年が十三ヶ月になる年回りだから、月給制の新政府の役所では来年の給料は十三ヶ月分になってしまう。それは避けたい、と。しかもこのタイミングで改暦したら、明治五年の十二月三日が新暦では翌年の一月一日となる。そうなれば〝二日間〟だけしかない明治五年の十二月分の月給もウヤムヤにして、つごう二ヶ月分節約できるやないか、と(笑)。そういうことが原因となってるようですね」
近代化、文明開化の名のもとに、あらゆる価値感が大転換していった明治期。この改暦の顛末もまた、いかにも時代にふさわしい、といえようか。そして今──。
嘉数さんいわく、「近代以降、驚くほどに精密」なレベルまで到達しているという天体の動きの研究を、もし歴代の研究者たちが目にしたら、どんな感想を抱くのだろう? さらにワクワクと触発され何かに挑むのか、あるいは、どこか味気なく思うのか。ちょっと訊ねてみたいような気もする。
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