二年前の初夏、三重県立図書館で伊勢型紙に関する資料にあたっていた時のことだ。〈江戸時代彫刻の名人とも云ふべき人の多かりしことは幾多の作品によって知るを得れど、その名今に残らざるは遺憾なり〉
白子郷土史にあった右記の一文に、胸を衝かれた。
江戸時代に彫られた伊勢型紙は美術館や資料館、博物館などで実際に目にすることが出来るが、いずれも、息を呑むほどに美しく、繊細で独創的だ。しかし、型紙の何処にも型彫師の名は記されていない。芸術的な作品を残しながら、江戸期の型彫師の名は伝えられることはなかったのだ。
他方、伊勢型紙を全国に売り歩く、型商と呼ばれる者たちが居た。旅行中の名字帯刀を許される等、紀州藩の庇護のもと、型商には様々な特権が与えられていた。柄にもよるが、小紋の型紙の値は一枚銀二匁。今日ならば、大雑把に見積もって四千円ほどだろうか。精巧な型紙の値としては、意外なほど安い。それもあってか、伊勢型紙は売れに売れた。
だが、売値が銀二匁なら、型彫師の手間賃は如何ほどか。羽振りの良い型商に比して、型彫師たちの境遇は決して恵まれたものではなかったと推察できる。名人と呼ばれることも金銭的に報われることもなく、ただ作品のみを残した型彫師たちを偲びつつ、県立図書館を後にした。
その半年ほどのち、東京都の美術館で開かれていた「マリアノ・フォルチュニ展」に出かけた。
デルフォスと呼ばれるプリーツのドレスを考案し、一世を風靡したデザイナー、フォルチュニ。天才の軌跡を辿る展示も終盤に差し掛かった時だ。何枚もの伊勢型紙が目に飛び込んできた。彼の愛蔵品だった。幕末から大正時代にかけて大量の伊勢型紙が海外に流れたと伝え聞くが、まさにそれだろう。
一枚、一枚、食い入るように鑑賞するうち、「その名今に残らざる」という郷土史の一文が脳裡に浮かび、表現し難い気持ちになった。
江戸時代の型彫師たちは、よもや、自分の彫った型紙が海を渡り、後世の芸術家を突き動かした、とは思いもしまい。型彫師たちはのちの称賛を知らず、私たちもまた、彼らの名を知る術を持たない。ただ、その文化のバトンを受け取り、慈しみ守り、次の時代に伝えていくのみだと強く思う。