JAPONismeVol.37-2025年春「他力本願~この言葉、誤解していませんか」
2025年3月1日発行 第37号
- 「本願寺法主 大谷暢順の超・仏教書」大谷暢順
- 特別対談 他力本願 大谷暢順×澤田瞳子
- 自力本願(?) 大谷暢順
- 求心力と遠心力 森本公誠
- キリスト教と他力本願 ピーター・J・マクミラン
- お知らせ ジャポニスム倶楽部
- ジャポニスム・六条山通信 花と森の本願寺〈二十九〉山折哲雄
- 六条山のたから筥㉔
今号の試し読み:キリスト教と他力本願 ピーター・J・マクミラン
Prologue はじめに
私は、日本の仏教に深く惹かれつつも、十分に精通しておらず、特に宗派の違いについては知識がありません。従って私の解釈には誤りがあるかもしれませんが、まず浄土真宗と他力本願についての私自身の理解を述べ、キリスト教と比較します。単一の概念としての他力本願に焦点を当てるのではなく、他力本願の表れとしての浄土真宗全体について書きます。
Section 1 法然、親鸞とキリスト
まず、親鸞の師である法然について。法然は阿弥陀仏を信仰する浄土宗を開いた人物です。阿弥陀仏の本願は、性別、年齢、社会的地位に関係なく、すべての存在を救うことです。善人であろうと悪人であろうと関係ありません。浄土宗の信仰体系によれば、阿弥陀仏に救われ、浄土に生まれ変わるためには、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで十分です。法然の教えは浄土真宗にも取り入れられ、仏教の実践から通常排除されていた社会の周縁にいる人々も含めて、さまざまな人々を惹きつけました。この考えを初めて聞いたとき、私はこれが涅槃に入る方法としては簡単すぎると感じましたが、その容易さ故に、宗教を広く普及させるためには、非常に効果的な方法のようにも思えました。
法然と親鸞はどうやってこの考えに至ったのでしょうか。二人の生涯を見ると、彼らが本当に偉大な人物であり、仏道に全てを捧げる模範的な生活を送り、身分の低い人々に至るまで、すべての人に仏教の教えを広めたいと願っていたことがわかります。彼らはすべての人が確実に救われるようにという強い願いを抱き、普遍的な救済方法を考えていました。
これは、西洋人がキリストの生涯を考える場合と似ていると思います。キリストは地上に来て、私たちのために十字架で死にました。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くために」(ペテロの手紙第一 3 :18)
キリストの目的はただ一つ、地上に生まれ、私たちのために苦しむことで、すべての人間に天国への道を作ることでした。彼は自分の命を捨てて、すべての人が救われて天国で愛する父なる神と永遠に生きることができるようにしました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3 :16)。イエスは「私が来たのは、彼らが命を得るため、それも豊かに得るためである」(ヨハネによる福音書10 :10)と言っています。
しかし、天国に入るにはいくつかの条件があります。悪人は神を信じるだけでは天国に行けず、自分の罪を悔い改め、善行を行わなければなりません。キリスト教では、親鸞とは異なり、裕福な人が天国に入ることは難しいと信じられています。裕福な人が富の束縛から解放されることを望まないのを見て、イエスは弟子たちに向かって悲しんで言いました。「裕福な者が神の国に入るのはなんと難しいことか!」「裕福な者が神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マルコによる福音書10:23, 25)
Section 2 他力本願という哲学
親鸞のもう一つの側面を見てみましょう。親鸞は自身の著した『教行信証』第三巻で、「真実の信心」を、信者自身から生じるものではなく、阿弥陀仏によって授けられるものとして説明しています。阿弥陀仏の慈悲のはたらきが「他力」の意味するところです。阿弥陀仏は人々に信心を授け、その結果、信者の中に信心が目覚めます。称名や念仏は、称賛や感謝の表現です。これは信者が完全に阿弥陀仏に身を委ねた後にのみ起こります。言い換えれば、人々が救われ、浄土に生まれ変わり、悟りを得ることができるのは信仰の力によるものです。
これもキリスト教に似ています。「人は皆罪を犯し、神の栄光を受けられない」(ローマ人への手紙 3:23)とあるように、キリスト教徒は自分自身を救うことができないことを認識しています。「あなたがたは、信仰によって恵みによって救われました。これはあなたがた自身から出たものではなく、神の賜物であり、行いによるものではないので、誰も誇ることができないのです」(エフェソ人の手紙 2 : 8–9)。言い換えれば、信仰自体も神からの贈り物です。
親鸞の思想において、信仰は「一心」とも呼ばれます。「一心」または「一念」とは、他の仏に頼らず阿弥陀仏だけに頼ることを意味します。これもキリスト教における非常に重要な考え方と似ています。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14 : 6)。「彼を受け入れた人々、彼の名を信じた人々には、神の子となる資格を与えた」(ヨハネによる福音書1: 12)。「神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにおける永遠の命なのです」(ローマ人への手紙6 : 23)。
浄土真宗とキリスト教にはもちろん多くの違いがあります。神は仏とは本質的に異なる存在であり、罪と懺悔の概念も異なります。しかし同時に、どちらの宗教においても、地球上のすべての人々を苦しみから救い、死後の世界において平和で幸せに暮らせる方法を模索する思想があることがわかります。これは、すべての宗教が持つ深い意義を示しています。他力本願の素晴らしい点は、キリスト教と同じように、すべての人を残らず包括するように発展したことです。最近は多様性や包括性がよく話題になりますが、他力本願よりも包括的な哲学はないのではないかと思えます。
Section 3 昨日の夢
昨夜、私は夢を見ました。科学者たちがすべての生き物の言語を解読する方法を学び、彼らの話や歌だけでなく、動きや行動も理解できるようになったのです。夏の盛りの鳥の鳴き声、秋の鹿の悲しげな鳴き声、鳥の飛び立つ音、森を吹き抜ける風の音、地球全体に降り注ぐ雨の音、すべてを白く覆う雪の音、光の筋、虹の色、動く雲、自然の中のすべての生き物の行動と言葉、そして自然そのものが書き起こされました。それらはすべてが同じく、「南無阿弥陀仏」と読めました。
そこで世界中の人々は目を覚まし、人間だけでなく、すべての生き物、鳥や蜂、あらゆる種類の動物や虫、そして木や花や草、風、水、空気、岩がすでに仏と一体になっていることを悟ります。風に揺れる草、私の家の竹林で鳴くウグイス、私の庭に咲く桜、そのすべての動き、存在そのものが、阿弥陀仏との一体感の表れであることを悟ります。そして、彼らすべてと私たち全員が救われたことを悟るのです。なぜなら、私たちは阿弥陀仏への信心を授けられたのですから。
南無阿弥陀仏。
ピーター・J・マクミラン
Peter MacMillan
翻訳家・版画家・詩人
2008年『百人一首』を英訳し、同年度ドナルドキーン日本文化センター日本文学翻訳特別賞はじめ数々の翻訳賞を受賞、ドナルドキーン氏より絶賛を受ける。『伊勢物語』『万葉集』など多くの古典翻訳を手がけ、2019年には英語版・百人一首かるたも制作。日本文化への敬愛と機知あふれる翻訳で、日本と世界の架け橋となる活動を展開し、内外の注目を浴びる。近著に『和歌からはじまる大人の教養』『謎とき百人一首 和歌から見える日本文化のふしぎ』『シン・百人一首 現代に置き換える超時空訳』など著書多数。
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