愚癡 gu-chi
何かあるとつい口をついて出る愚痴。
現在は「言っても仕方のないことを言って嘆く」という意味で使われています。しかし、今一度愚痴という漢字を見てください。愚は才知の働きがにぶいこと、痴(癡)は知恵がにぶいこと、どちらも「おろか」という意味なのです。
この言葉も、本来は仏教用語です。原語はサンスクリット語の「モーハ」(moha)で、「愚癡」はこれを意訳したものです。ちなみに音写すると「莫迦(ばか)」となり、愚癡と莫迦の語源は同じです。では、仏教でいう「愚癡」とはどういう意味でしょうか? 仏教辞典には「仏教の教えを知らず、道理や物事を如実に知見することができないこと」とあり、仏教的なものの見方である「人生や事物すべては無常であり固定的なものは何もない」という事実(真理)に無知なことを愚癡と言います。誰にでもある「おろかさ」そのものです。
また、仏教では苦しみ悩みを生み出す心のはたらきを「煩悩」といい、代表的なものを「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」の「三毒(さんどく)」と呼びます。「貪」はむさぼり、執着する心のことです。「瞋」は嫌悪、憎悪することでいかりの心を言います。これら二つは心情的なものですが、「癡」は知的な煩悩で、真理に暗いという意味で、無明(むみょう)とも言います。
固定的なものは何もないという真理に、人はなかなか行き着けません。それゆえ、好きなものに執着したり嫌いなものに怒ったりします。つまり無明は「貪」「瞋」の根元であり、人間のすべての苦しみ悩みの根源なのです。無明と愚癡は同じで、この愚癡がなくなれば心は平静になると仏教では説かれています。
二人の孝行息子を持つ母親の話があります。長男は傘屋を営み、次男は下駄屋を生業としています。母親は、雨が降ると次男を心配し、晴れれば長男を心配して、言っても仕方のないこと、つまり愚痴をこぼして毎日過ごしています。気持ちを変えて、雨が降ったら長男の商いの繁盛を喜び、晴れたら次男を祝福したら、毎日感謝して暮らせるのではないか? そんな話です。
つい「愚痴をこぼし」てしまう自分への戒めとして書きましたが、皆さんはいかがでしょう?
- 『岩波仏教辞典』(岩波書店)
- 『福武国語辞典』(福武書店)
- 『角川漢和辞典』(角川書店)
- 高崎直道『仏教入門』(東京大学出版会)