花と森の本願寺〈10〉山折哲雄(YAMAORI Tetsuo)
最近ある会合で、京都は老舗の仏具店の主人からきいた話である。
ここ10年ほどのことであるが、仏壇の売れ筋に微妙な変化がみられるようになった。
「仏壇がほしい、できれば小型のものがいい。ご先祖のご位牌を祀りたいから……」
そういう注文が増えてきた。それでつい、
「ご本尊の方は?」
ときくと、仏さんのご本尊も宗祖の像も、それを祀るという話がでてこない。ご先祖の位牌を並べるだけだから、小型のものがいい。本音のところでは、その方が値も安い、ということなのであろう。
私はその話をきいて驚くとともに、一方ではやはりそうか、と納得したのだった。
これはずい分前からのことだったが、宗派を問わず仏教信徒の方たちと話をしていて仏壇の内容に話が及ぶとき、菩提寺のお寺でどんな仏様や宗祖が祀られているか知らない人が結構多かった。ご本尊が釈迦如来か阿弥陀如来か知らない。大日如来か薬師如来か関心がない。ましていわんや個々の宗祖の名を挙げる人はさらにすくなかった。
このごろはその傾向がさらにすすみ、ご先祖の位牌だけでいいということになったのだろう。仏壇に祀られる中心は仏祖像か宗祖像であることが忘れられ、ご先祖の位牌がいちばん大切、という意識がもう一般化しはじめているのかもしれない。
けれども、ここでよくよく考えてみると、宗派を問わずそれぞれの宗祖なるものも、もともとはわれわれのご先祖の一人だったことに気づく。血はつながらないにしても、尊敬すべき重要な人物、つまりご先祖のお一人だったということに、ふと思いいたる。われわれの歴史や信仰の流れに沿って考えれば、仏祖信仰や宗祖信仰に先き立って、もっと身近な先祖信仰の太い流れがあったということだ。
仏祖も宗祖も先祖崇拝という、より深い信仰に包摂されて、発展してきているということではないだろうか。それは別のいい方をすれば、この日本列島の神仏習合という、より根本的な宗教性のなかで発展し、成長をとげつづけていると私は思っているのである。