JAPONismeVol.33-2023年Special Issue「文化の未来力~人と、自然と、言の葉と」
2023年11月1日発行 第33号
- 「本願寺法主 大谷暢順の超・仏教書」大谷暢順(ジャポニスム振興会会長)
- 【巻頭スペシャル対談】言霊の幸はふ國の未来 山折哲雄×岸田繁
- ジャポニスム振興会・十年の軌跡
- 「命」の道しるべであれ! 千玄室
- 自分は、どう思うのか 節子・クロソフスカ・ド=ローラ
- 文化は人間そのもの 山本・リシャール登眞
- 先人の話を聞く 野村渚
- お知らせ ジャポニスム倶楽部
- ジャポニスム・六条山通信 花と森の本願寺〈二十五〉山折哲雄(ジャポニスム振興会特別顧問)
- 六条山のたから筥⑳
今号の試し読み:言霊の幸はふ國の未来 山折哲雄×岸田繁
ともに卓越した存在感を放つ学者とミュージシャン。
そのおふたりが初顔合わせの座談、放談。
文化の根幹をなす「言葉」を切り口にいつしか話題は海を超えて。
縦横無尽のやり取りをお楽しみください。
──古来、この国は言霊の幸はふ國、言葉に魂の宿る国と言いながら、昨今ではAIも言葉を紡ぎ、歌もうたう。山折先生は〝AIひばり〟のことなどもお書きでしたが、こういう時勢、おふたりはどうご覧になりますか?
山折 あのね、全部が反対なわけじゃないんですよ。だけど、AIひばりは全くいけませんな。あれは冒涜だ。あなた、どう思われますか?
岸田 僕、普段、音楽制作の現場にいるので、どういうことを人間がやって、どういうことを機械がやるのか、ということは大体分かっているつもりだったんですけれども、テレビでAIの美空ひばりを見た時に、たとえば予測変換だったりとか、人間だったらこう考えるだろう、というパターンの中で何かを選ぶというのが、僕たちが考えるAIの使い方だとして、こういう言い方が正しいのか分かりませんが、五感のほかにも六感と言われるような、より感覚的なものを使って音を出すとか、感情的な響きを導き出すというところを、ちょっと安直にAIと言われるものに任せてしまっているような……そんな感じはしました。心に響くか、といったら、やっぱり響かなくて。
山折 あんまり論理的な背景はないんだけれども、人間とAIのような機械との共同でものを作ろうとするときね、喜劇的なものは成功するけれども、悲劇は、これはダメだなと。
岸田 確かに!
山折 そういう直感がありますよ。チャップリンは成功した。見事に成功して未来予測性まで出したわけです。けれど、ひばりの悲哀の世界は……。
岸田 ちょっと今、目から鱗が落ちました。おっしゃる通りかもしれないですね。AIが何を選ぶかというのを僕もあまり詳しくないんですが、例えばエアコンだったり、総じて人間が快適なほうにとか、あるいは物事を正解に導き出すみたいなことをやっているとすると、それがネガティブな心の動きだったり、僕はこれ名前つけられないんですけど、感情というんですかね、エモーショナルな、悲哀、なんですかね、あるいは慈しむとか、そういうものとの相性はすごく悪そうな気が。
山折 そうだね、そこ共通する感覚かもしれないね。
岸田繁、何者ぞ?
山折 ところで岸田繁さんというお名前、本名ですか?
岸田 本名です。
山折 ニックネームとかペンネームとか、そういうものをお使いにならんのですね。最初からそうですか?
岸田 あまり考えずにこの世界に来てしまったんで。
山折 ここ数年、おや? と思うようになったのが、今の若者、特にZ世代って言われる世代の人たちの名前が、ほとんどニックネーム的になっているってことがあるんですね。例えば「うっせぇわ」のAdoさんとか、オリンピックのスケボーなんかで活躍する選手たちの名前も、極端に短かったり、苗字と名前の区別がわからなかったりで発音に非常に難儀しているんですけど。このニックネーム化は何だろう、と考えてみると、結局、世の中が匿名性の時代に移っている。
岸田 今、先生の話をお聞きしていて考えていたんですけど、文章とか、文脈のようなものがすぐ分断されるような時代になってきたな、というのも僕は感じていて。すぐに文が終わってしまう、あるいは伝えたいことを説明するための余白の部分っていうのがどんどん無くなって、なんていうかな、真ん中だけになっちゃうみたいな感覚。多分それはSNSと言われるものだったり、会話もコロナウイルスが流行る前だったら長いこと喋ってても大丈夫だったのが、簡潔に済ませるようになってきたからなのか、わからないですけど、なんか全部が短くなった印象は受けています。
山折 そこで思うのは、もう3、40年前から世界で流行りだした言葉に「多様性」ってのがありますね。どこの分野でも、領域でも、馬鹿のひとつ覚えみたいに多様性、多様性。それが行き着くところ匿名性になったかな、という感じがしています。誰が何やら、どこから出てきてどう育ったのか、出自も全然わからない。その中にあって、堂々の「岸田繁」だ。そして今日、お姿を拝見しても髪の毛は尋常だし、眼鏡もまあスタンダードだし、着ているシャツもノーマルだよね。けれども、ロックバンドでしょ?
岸田 はい、ロックバンドです。
山折 ロックバンドを組むっていうのは、やっぱり反社会的なものを携えて。
岸田 うーん。なんかその見た目で反社会的だと弾かれちゃう、とも思うんで、ある程度反社会的なものを持ってるけど、無害な感じで(笑)。
山折 それをコントロールしてきたかどうか?
岸田 してたかもしれないです。
山折 京都出身、ていうの関係ない?
岸田 あると思います。大阪出身だとまた違うでしょうし、東京のバンドだと全然違うことになってたと思います。
山折 そして作られた音楽を聴いて、さて、この音楽家はご自分を紹介するときに何と言っているのかなと。ミュージシャンか、作曲家か、私のまずしい知識で言うと、シンガーソングライターかなと、こう思ったんですけれども、それもちょっとそぐわない。すると岸田繁とは一体何者かと思うようになった。あなた、ご自身を何と言う?
岸田 カッコつけてたら作曲家って言っちゃうんですけれども、シンガーソングライターと言うには……。ブルースマンではないし、何でしょうね。逆に、どういうのがいいと思います?
山折 どれか一つと言いにくいような人だなとは思った。すると僕はやっぱり古い人間だから、表現が古式になるんだが、新しいご時勢のシューベルトが、今風の歌曲をぶっ下げて現れてきたな、と。未完成交響曲を書いて……。もちろん違いますよ。違うけれども、そういうことをふと思った。あなたの作曲されたシンフォニーを聴いて。でもロックという点では、ベードーベンの第九もロックから始まるよな?
岸田 ダーン、ダダーン、ダダーン……て、もう、大好きで僕……‥。
山折 古典も好きなんだ、ロックはもちろん、その他の現代音楽も。てことは、両方視野に入れて、両方狙っているのかな、欲張りな男だな、と思ったわけだ。どうですかね?
岸田 欲張りです。
山折 古典も好きなんだ、ロックはもちろん、その他の現代音楽も。てことは、両方視野に入れて、両方狙っているのかな、欲張りな男だな、と思ったわけだ。どうですかね?
岸田 欲張りです。
山折 欲張りだな(笑)。それがもうひとつ、面白いところだね。
岸田 音楽はベートーベンも好きですし、ピアソラとかも、美空ひばりさんも好きなんですけれども、そもそも僕は、ニンベンのほうの民俗的と言われる世界、フォークロアが大好きで、黒人たちのブルースも、シャンソン歌謡のように始まったポップスも、農耕しながら歌われていたような歌も、わらべ歌も好きなんですけれど、音楽を聴いて耳に残るものを紐解いていくと、やっぱりフォークロアの要素が強いものに惹かれるんです。先ほど、シューベルトのお話に恐縮しましたが、あの時代、シューベルトの、ベートーベンがやろうとしなかった、よりフォークロアなメロディみたいなものが魅力的だなと思っていて。単純に、今の先生のお話を聞いて、僕、ちょっと頑張ろうと思いました。より欲張りに(笑)。
山折 これはすごい作曲家が誕生するかもしれないな。
岸田 いや、いや、いや。
山折 そこでひとつ聞きたいんですが、そのフォークロリックな音を標榜するあなたが、ご自身が作曲するシンフォニーの中に、歌を入れておられないのがある。これはどういう意味ですか?
岸田 それは楽器に……、とくにシンフォニー2を作った時、より楽器に歌わせてみたかった、というのがあります。実はそのとき、言葉に対する信頼、みたいなものを喪失していた……、いろんなことがあってすごく悩んだ時期でして、何を言っても、どういうふうに説明してもうまくいかないことがあったので、もう言葉を塞いじゃった。どうにもならない気持ちを全部旋律にして、言葉なしで、言葉が聞こえるように作ろうと。
山折 そうか、楽器に、かあ……。
さんかくと、四角と、まる
山折 今回、話をするにあたってあなたのCDをずいぶん聴かせてもらいました。そこで岸田さんの作られた音楽、音の世界、それを支えているのはね、ああ、言葉だなと。岸田さんの言葉感覚というか、言葉の見つけ方というか 選び方というか、これはちょっといいぞ、と。そう思ったのが最初ですよ。
岸田 ありがとうございます。
山折 言葉の選び方が実に巧みだ、あなた。特に最初の言葉、出だしの言葉が秀逸だよな、どの詩を読んでも。そうするとね、この人は生まれて最初、音を出していた、歌を歌っていた、何かを叫んでいた……、どれが先だったか。いや、風の音とか、雨の音とか、音を聴くほうが先だったのかな、と。そんなことを思ったりしましたよ。なかで感心した言葉があるんです。「言葉はさんかく こころは四角 まあるい涙よ飛んでゆけ」(「言葉はさんかく こころは四角」作詞・作曲 岸田繁 より)おおっ!と思ったね。この言葉は自然に出てきたのかな。考え抜いたのかな。
岸田 恐縮です。あれはですね……、考えて歌詞を書くときって一様にうまくいかないんですよ。こういう歌を書こうとか、こういう気持ちを書こうとか思って書くと、うまくいかないことが多くて。去年まで大学で作曲を教えてたんですが、最近の子たちは、あるいはプロのミュージシャンもそうかもしれないですけど、とくにポップスを作る子たちというのはサビから作るんですよね。僕はそれができない。最初からしか作れないんです。まあ教えるときは、自分のできないことも教えてたりするんですけど(笑)。僕は何を書くにも、歌詞を書くにしても最初からじゃないと書けない。で、自分の感覚としては、自動運転なんです。夢の中で辻褄の合ってない物語がつながっていくように、パッと言葉が出てきたら、意識する前に書いちゃうんです。だからほとんど何も考えていない。ただ、言葉を選ぶときは、できるだけ自分の意識をとばすというか、考えをとばした状態で、言葉のほうに導かれていくみたいな書き方をすることが多いと思います。
山折 その三角・四角・丸を「言葉」と「心」と「涙」に割り振ったことの面白さが一つあるんだけど、実は理屈を言うとね、これはもう何千年、何万年前からね、多くの哲学者とか宗教家とかそういう人々がやってきたことが基礎になっているんですよ、この考え方はね。宇宙とか世界、あるいは人間というのをどう捉えるか。その捉え方の基本が、丸か三角か四角なんですよ。ほとんどの人はこの三つに頼っているんです。
岸田 なるほど。そうですね、五角形とかじゃないですもんね。
山折 そういうものが、なんていうか宇宙感覚みたいなものなんですね。人類が何万年かけて作り上げてきたものなんだよね。その大きな土台の上に我々乗っかって生きているわけだ。それを意識するとしないとに関わらず。べつにあなたの歌詞にそういうことを直接結びつけなくてもいいんだけど、言葉の表現、表出に、悩んで悩んで苦労していると、自然に現れてくるのが、その無意識のイメージだと思うんだよね。割り振りがまた、難しいんだけど、そこにあなたの個性が出る。
岸田 はい、割り振り難しいです。でも、合点がいきました、なんか、すごく。
山折 反論は、ないのか……。
岸田 もう言いくるめられてしまった(笑)。でも、涙は絶対、丸、です。
山折 だよな? 涙は球体だ。
岸田 心は……、心が四角い人もいると思います。心が四角い人も、心が丸い人もいると思うんですけど、僕はやっぱり、心というのは、本当は転がりたいんですけど、転がりにくい。もっと転がらない人はなんとなく、自分の中でちょっと重たいなと思っているのかもしれない。いや、初めて自分の歌の歌詞について考えました。
山折 それでどうですか? あなたは物心ついて、書いてましたか? それとも音楽を作ってましたか?
岸田 えっと、音楽は頭の中で、なんかちょっとしたものが流れてました。でも完成された音楽ではなかったですし、僕はこの辺(京都市内)で生まれ育ったんで、鳩が鳴く声とか、お坊さんが托鉢に来る時の「ほーっ」ていう声とか、古紙回収の音楽っていうんですかね、なんかスピーカーから流れる音……、そういうのをずっと聴いていて。その中で自分の腑に落ちたものって、やっぱり染み込んじゃうんで、今でも音楽作って、突き詰めて突き詰めると、それに似てくるんですよね。そういう意味では多分、その耳がどこかに向いていたんだろうなとは思いますけど。言葉を書き始めたのは、小学校高学年か中学校ぐらいの時に、俳句とか詩のようなものをちょっと書いてみたことはありましたけど。
山折 手がかりは、俳句か。
岸田 俳句は、そうですね、好きでしたね。べつに詳しいわけじゃないんですけど。
山折 そんなことはどっちでもいいんだよね。
岸田 わりと、何かを言おうとする詩よりも、風景や情景の「前にいる感じ」っていうのが自分としては好きです。
ミケランジェロの企み
山折 私の質問が続きました。あなたのほうからもどうぞ。
岸田 「言葉」からは離れてしまうのですが。先生は、ミケランジェロの宗教画とかを見たときって、どういうふうに思われたのかお聞きしてみたいな、と。
山折 どうしてミケランジェロを出したんですか? 僕に対して。
岸田 この本(山折哲雄著『生老病死』KADOKAWA・2021年)を読ませていただいて。あと、今度イタリアへ行くので。自分の思想というよりは感覚として、アニミズム的なものだったり、多神教的……というか、あるいは子どもの頃から神サンは八百万ですよ、と言われていた環境だったので全然わからないんですよ、向こうの、一神教の世界観というか……、ミケランジェロが作ってきたもの、何を考えて、どういうふうに思って、あの宗教画を描いて人の気持ちを動かしてきたのかな、というのが。けれど、生で見ると全然違うんだろうな、と。
山折 それを直感しておられるんですね?
岸田 はい。それで今回、行くんですが、前知識がほとんどないので。
山折 そうか、そうか。僕のミケランジェロの話を喋らせていただけるか! 乾ききった太陽の下、素裸に近いような日常で芸術を愛する、楽しむ、そのイタリア・ルネサンスの最高峰は、僕はミケランジェロだと思っていたんです。そしてイタリアの奥の院はバチカン。サンピエトロ大聖堂、ローマ法王が日曜のたびに出てきてお説教をする、あの聖堂の正面に入って右手に行くと、ミケランジェロの彫刻、「嘆きのピエタ」がおかれている。処刑され地上に下ろされたイエスを聖母マリアが抱き抱える像。これね、近年は肉眼では防弾ガラス越しにしか見えないんだが、ある時、イタリアの写真家が克明に接写した写真集(森雅彦訳『ミケランジェロ ピエタ─アウレリオ・アメンドラ写真集』岩波書店・1999年)を見て仰天した。
岸田 と、言うと?
山折 あのふたりの、イエスと聖母の肉体表現がものすごく官能的なんだ。圧倒的なセクシャリティ、手と手の触れ合い、股の表現の仕方、これはもう、本当にスレスレだ。これ果たして教科書にも堂々と載っているような、つまりイタリア・ルネサンスの精神性の最高の高みを示す、といった従来の評価のままで良いのか? 多くの神々が奔放な性愛を謳歌する、むしろギリシャの、ヴィーナスの官能の世界と直結するような聖母の身体ではないのか? とね。続いてショックを受けるのがシスティーナ礼拝堂に描かれている「天地創造」図ですよ。あそこに登場する中心の老人神は、筋骨隆々のキン肉マンみたいな描き方なんだけれども、あれ、一神教の神なんだよね。キリスト教の神とはもともと眼に見ることの叶わない超越的存在ではなかったのか? それを一神教の殿堂であるシスティーナ礼拝堂でだよ、ギリシャ時代に逆戻りしたような肉体崇拝、神の人間化がまかり通っている。そしてだ。そんなことをしてのけるミケランジェロの企てを、聖人面をして黙認した司教たちがそこにはたくさんいたわけだ。そう思うと、これまでのミケランジェロの位置付けは、変えなきゃいかん、そういうのが僕の考えですよ。
岸田 なるほど! いや面白い。
山折 これはね、大航海時代の西洋史の常識、イタリア・ルネサンスに対する日本人の思い込み、西洋人の本音の、要するに大事なところを見損なっているんだ、ということを僕は言うつもりなんですが、専門家はこういう議論には振り向いてくれないんだよな。一神教で全部処理し説明してしまうわけですね。いや、よく聞いてくれました!
岸田 こちらこそ、お聞きできてよかった。ホント面白いです。さっきも少しお話したように、ある時期、言葉で悩んで、もう言葉では伝わらなくてもいいか、と思ったりすることもあるんですけど、今日、山折先生にお会いしてかけていただいた言葉とかって、後々、すごく効いてくるんだと思うし。やっぱり、言われて嬉しいことって、嬉しいもんですよ、本当に。だから、いい言葉を出していかないとな、と思いましたし、なんかね……、楽しく一生懸命、生きようと思いました。
山折 いや、こちらこそ大いに楽しかった。こんな、しっちゃかめっちゃかな、愉快な会話は、これはAIにはできないよな。おそらくこの先、いろんな人類がやってきた経験に基づけば、これまで構築してきたAIの世界を再びぶち壊す──、我々が今まで、文明の利器を追って、最後になって神殺しをしてきたように、「AI殺し」の時代が来るんじゃないか……。案外、もう始まってるんじゃないの?
岸田 ですね、どっかでもう……。そういうこと、もやん、と考えている人はいっぱいいそうですよね。
山折 瀬戸際なんだろうね。そこからカオス的状況を経て、カタストロフ(壊滅)のほうに持っていかれるのか、あるいはコスモス(秩序ある宇宙)に戻り、再組織の方向へ行くか……。その鍵となるもののひとつに、文化の力が深くかかわり、肉体そのものから発する言葉の魔術がある、と思うんだが、それ言い始めると連載にしなくちゃならんね。どうですか、今日のところはここらで。次を楽しみに、まずは一杯やりましょう。
岸田 おおっ! いいですね。一献、嬉しいです、ぜひ!
岸田 繁(きしだ しげる)
音楽家
山折哲雄(やまおり てつお)
宗教学者
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