花と森の本願寺〈1〉山折哲雄(YAMAORI Tetsuo)
京都は何といっても東山三十六峯、その南寄りには森に囲まれた六条山が鎭まっている。13世紀の親鸞聖人の教えが今日に伝えられている霊跡で、墓苑としても知られる。かつて人々はその峠道を通って、東国や西国への旅に出ていく交通の要衝だった。
その六条山の樹間に立って、眼を凝らしてみよう。京都洛中の賑わいのかなた、はるか西山のふところ深く12世紀の西行法師が一人とぼとぼと歩いている姿がみえてくるはずだ。彼はその地の花の寺(勝持寺)という小さな庵で出家したと伝えられる。歌の西行、恋の西行である。桜の花が好きでしばしば吉野に通い、さらに高野山にのぼって修行し、伊勢神宮でも庵を結んで神官たちに歌の道を教えていた。
六条山から南に目を転じてみよう。今熊野神社の緑に映える境内がみえてくるはずだ。14世紀の世阿弥が若冠12歳の年にその境内で能を上演し、将軍足利義満の心を奪ったことで知られる。のち、次代の将軍にうとまれ佐渡に流されたが、『風姿花伝』や『花鏡』によって芸の風格を後の世に伝えた。仏の道を歌舞の世界に結ぼうとした聖(ひじり・世阿弥陀仏)だったといっていい。彼は奈良の禅寺で出家しているのである。
西行も出家の道を歩きながら、歌の道を捨てなかった。世阿弥は僧衣に身をやつしつつ、能という美の魅力を手放すことがなかった。二人とも美と信仰のまじり合う奥の院に足を踏み入れ、宗教と芸術が交錯する叢に分け入ろうとした人間だった。その西行や世阿弥の「花」三昧の心を、いったいどのような風や光の波にのせて、ここ六条山の緑なす森の舞台に運び入れたらいいのか、この本願寺の庭一面に咲かせることができるのだろうか。
今、蘇ってくるのが親鸞聖人のつぎのお言葉である。
無礙(むげ)の光明は、無明の闇を破する慧日なり(『教行信証』)
この世の闇に、浄らかな光を点ずる、その光明の中に花開く本願寺再生の道を、今われわれは歩きはじめようとしている。