花と森の本願寺〈14〉山折哲雄(YAMAORI Tetsuo)
ことしの5月、88歳になったということで、米寿のお祝いをしていただいた。
幸い知り合いの仲間と酒を酌みかわすだけだったので助かったが、米寿とは、数字の八を引っ掛けたシャレで、日常食の米とは何の関係もない語呂合わせである。
敗戦後どのくらい経ったころだったか。気がつくと、ふだん口にしていた稲という言葉が米に変えられるようになっていた。朝鮮戦争などがあって、戦後経済が徐々にのびはじめたころだった。
それまで「稲作」といわれていたのが、いつのまにか「米作り」といい換えられるようになっていたのだ。
もともと秋の収穫祭というのは、その年にとれた新穀、つまり新しい歳の稲穂を神前に供え、感謝の気持を捧げる祭りだった。稲穂にこめられている生命、すなわち稲魂(いなだま)を次代の稲穂に送りとどける、その稲の魂によって食の永続を祈願する祭りだったのだ。
それが気がつくと、米作りという言葉に化けていたわけである。すり換えられていた。車を作るように、米を作るようになっていた、といってもいいかもしれない。もしかすると子作りをするように、米作りをするようになっていたのだろう。
やがて、経済の成長とともに、たくさんの物の生産が増えていった。とともに、子作りと車作りのため全力疾走がつづけられ、この国は世界で一、二位を争う経済大国にふくれ上がっていった。
ところがこの米の生産が、いつのまにか物の生産に追いつかなくなり、減反などの農業政策により、食糧自給率がみるみる低下していった。
車作り世界一になって、食糧の確保を他国に賴る金持ち貧困国に転落してしまったのである。
もう手遅れかもしれない。だが、せめてこの六条山の花と森の本願寺にだけは、豊かな稲穂がたわわに実る夢を見てみたいのである。