花と森の本願寺〈15〉山折哲雄(YAMAORI Tetsuo)
あるメディアの取材で、奈良のたんぼ道を歩いていた。遠くに三輪山の三角の姿が浮かんでいた。カメラマンが「ここで撮りましょうか」といい、山を背に立ち止まった。しばらくして彼がいう。「もちょっとリラックスして、笑って下さい……」。いつものことだと思いながら、黙っていた。しばらくして
「なぜ、笑わなければならないのかい」
といった。ややあって、たたみかけるようにつづけた。「なぜ、怒った顔ではいけないの」。
彼は、しばらく考えこんでいるようだったが、首を上げて返してきた。
「だとすると、なぜ怒っているのか、何か説明をつけなければ……。笑い顔なら、何のキャプションもいらない。でも怒っているとすると、説明がほしくなりますよ」。
私は、なるほどと思った。笑う顔と怒った顔には、それだけの差がある。笑い顔をみて腹を立てる人間は、まずいないだろう。もっとも笑い顔とはいっても、苦笑いのようなもの、冷笑とかいうのもあるから一概にはいえないけれども、それにしても「笑う門」に文句をつける不粋者はまずいない。それどころかそれを眺める多くのひとは、何ということなしに心をなごませる。むろん説明などは要らない。
あれこれの雑誌、会社や宗教団体の機関紙などの表紙、そしてグラビア特集などをみればわかるが、登場する人物たちはどれをみても満面の笑みを浮べている。ほとんど例外がない。それが一番無難なのであろう。何も正月の号にかぎらない。笑い顔ほど無害で、安全で、使い勝手の良い表情というのはないといっていい。それもこれも眺める者に緊張を強いる要素がゼロに近いからにちがいない。
かつてこの国には土門拳という剛毅な写真家がいた。著名人たちの肖像写真を撮ったことでも知られるが、その登場人物たちのなかで笑顔をみせているのは一人もいなかったように思う。
笑う門に鬼がいたのである。