花と森の本願寺〈2〉山折哲雄(YAMAORI Tetsuo)
六条山から北を望めば比叡山、眼を南に向ければ、はるか伏見稲荷山をこえて大坂御坊(現・大坂城)のシルエットが浮かんでくるだろう。また六条山山頂の森かげから東の谷をうかがうと、樹林ごしに山科の盆地がみえてきて、かつての山科御坊の遺構を眺めることができるはずである。
大坂御坊は、本願寺第八世の蓮如上人が選んだ伝道の最前線拠点だったが、山科御坊は85年の生涯を全うされた上人の終焉の地である。大坂御坊は一向一揆の石山戦争をへて、やがて秀吉の居城へと変貌したが、山科御坊の方は京都の貴族をして、その美麗くらべるものなし、とまでいわせる威容を誇った。
世を去る年に詠んだ蓮如上人の遺詠が意表をつく。
八十地五つ定業きはまる我身かな
明応八年往生こそすれ
ここで上人は、釈迦の80年を5年越えてはいるけれども、親鸞の90年にはまだ5年及ばない、と述懐している。すでに自身の往生を覚悟しているけれども、これを寿命へのこだわりとみるか、生命エネルギーにたいする無心の讃歌ととるか、微妙なところではある。今日のわれわれの高齢社会の鏡に照らせば、誰はばかることのない、堂々たる宣言だったとも受けとれる。
さて、この六条山を降り山科御坊の遺跡を通りすぎて、琵琶湖畔の大津に歩を運んでみよう。そこから山間に分け入ると、あの芭蕉を葬った義仲寺があらわれる。大坂の地で逝った翁の遺体が、淀川を上って運ばれてきたのである。芭蕉はなぜか木曽義仲が好きだった。その俳聖最後の句が
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
これは誰でも知っているが、それを歌人・蓮如の終焉歌とくらべてみると、どんな二人の心の風景があらわれてくるだろうか。
蓮如が選んだ伝道拠点は越前の吉崎をはじめ、大坂、山科などいずれも物と人が行き交う情報の十字路だった。とりわけ山科の地は中山道と東海道に通ずる交通の要衝だった。上人のもとには連歌師や俳諧師が出入りしていたし、蓮如自身、能や狂言を楽しみ、和歌や連歌をたしなんでいた。演能の催しを通して諸国の情報なども手に入れていたにちがいない。
上人の生きた15世紀は能楽を完成した世阿弥の死から、信長誕生の前夜までの時期にあたっている。それから約半世紀をへてポルトガル人が種子島に鉄砲を伝え、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した。