花と森の本願寺〈3〉山折哲雄(YAMAORI Tetsuo)
「勿体なや祖師は紙衣の九十年」
この句の作者は大谷光演(明治8~昭和18)。東本願寺第23世法主である。俳句をよくし、句仏と称した。その代表句として知られている。
本願寺すなわち浄土真宗の「祖師」は親鸞である。かれは流罪、遍歴の苦難の生涯のなかで90年を生きた。その祖師は、和紙で仕立てた粗末な衣を着ていた。それで長い風雪の時代を耐えられた。それを思うと、万事に満たされた生活を許されている自分は身が縮む思いで顔が赤くなる。おそれ多いことだ。勿体ないことだ。
だいたいそんな意味だろう。
この大谷句仏の気持に、私も共感する。現代のわれわれに強烈なメッセージを送っているようにも思う。この句は
「勿体なや 釈迦は裸身の八十年」
「勿体なや イエスは十字架の三十年」
といいかえて味わうこともできそうだ。大谷句仏は、右の一句で今にも現代に蘇ってくるようだ。
2005年のことだった。ケニアで長いあいだ民主化運動を指導してきたワンガリ・マータイさんが来日してこの「モッタイナイ」を発見し、国際社会に広めてくれた。また植樹運動など環境問題に貢献したとして、その前年には、アフリカ人女性としてははじめてのノーベル平和賞を受賞していた。その彼女が「モッタイナイ」のなかに「リデュース(消費の抑制)」、「リユース(再使用)」、「リサイクル(再利用)」の3Rを見出して、新しい世界のキーワードになるだろうといってくれたのである。
当時、私は「モッタイナイ」には彼女のいう3Rのほかに、もう一つ重要な意味が含まれているだろうと考え、それが句仏上人のいう「勿体ない」ではないかと、そのことをいったり書いたりした。そのことがマータイさんに通じたのかどうか、しばらくしてマータイさんは「モッタイナイ」に第四番目の「リスペクト(尊敬)」が必要だろうと訂正されたのである。
その後私はマータイさんと京都で対談する機会に恵まれたが、そのとき「モッタイナイ」の4R説をおたがいに確認し合ったことが忘れられない。だが、2011年の9月、マータイさんは突然、卵巣ガンのためナイロビ病院で死去された。まだ71歳の若さだった。