花と森の本願寺〈5〉山折哲雄(YAMAORI Tetsuo)
句仏上人は、その生涯にわたり二万句の作品をつくったと、そのお孫さんにあたる大谷暢順さんからうかがったことがある。そのとき直観的に、句仏上人は孤独な人だったかもしれないと思った。
句仏さんとは、先号で紹介したように東本願寺第23世法主、大谷光演上人のことだ。法主は公的な役職だったが、私的には明治・大正・昭和に活躍した俳人だった。正岡子規に心酔し、その門下高浜虚子や河東碧梧桐などと親密な交流をもった。だが惜しくも、昭和18年に69歳でこの世を去っている。
その生前、東本願寺に属する俳人仲間の沼夜濤が『句仏上人』という力のこもった評伝を書き、京都の法蔵館から出版していた。大正6年のことだ。650頁の大冊であるが、一月たって再版されているから話題になったのだろう。このとき句仏上人43歳である。
この評伝のなかで夜濤は上人の作品二万句の中から200句を選び抜き、注釈を加えているが、その最終句として「勿体なや祖師は紙衣の九十年」をとりあげ、俳人句仏の代表句としている。この評伝ははじめ大阪朝日新聞の夕刊に十数回にわたって連載され、あとから一冊にまとめたのだった。
ところが戦後の昭和34年になって、上人生前の句を収集・整理して『句仏句集』の作品集が読売新聞社から刊行された。編集したのがさきの沼夜濤と、同じ俳句仲間の名和三幹竹だった。この作品集に選ばれたのが約一万句であるが、上人が生涯に二万句をつくっていたとすれば、ほぼその半数がとりあげられたことになる。そして、その明治42年の冒頭の句として、さきの「勿体なや」の一句が登場する。
この昭和時代の『句仏句集』には虚子の序がついていて、句仏上人との出会いの思い出をふくめ、興味あるエピソードがいかにも虚子らしい素っ気ない筆でつづられている。そしてそこでも句仏上人の代表句はやはり「勿体なや」だろうかといっている。
おそらく編集作業の中で、「勿体なや」は当初から代表句として浮上していたのであろう。それとともに、この作品が上人35歳の若い時代のものだったことを重ね合せると、上人は生涯に二万句もの作品をつくったにもかかわらず、やはり孤独な人だったのかもしれないと思うようになったのである。