花と森の本願寺〈6〉山折哲雄(YAMAORI Tetsuo)
「俳人句仏」を、私はこのところ現代における飄逸の本願寺上人と呼んでいるのであるが、この人物が世に躍り出るにあたって重要な役割をはたしたのが暁烏敏だった。この暁烏敏の存在を欠いては、大谷句仏の何たるかを語ることはできない。
暁烏敏は明治10年(1877)に、石川県松任の、東本願寺明達寺に生れている。句仏上人より二歳下だった。
宗門では、明治20年代から改革運動がはじまる。その中心が清沢満之だったが、暁烏はその師を追って上京、「浩々洞」を拠点に仲間とともに雑誌『精神界』を刊行して、活発な執筆活動をはじめた。それをまとめて『歎異抄講話』として出版すると、これが売れに売れ暁烏の名を天下に知らしめた。同じころ句仏も清沢に私淑し、その運動を支持しはじめる。
明治34年(1901)のことだ。句仏は東京における『精神界』の発行を祝って、つぎの一句をつくった。
露の世や元の雫は髑髏(しゃれこうべ)
これはおそらく、清沢満之の主著『宗教哲学骸骨』を諷して詠んだのだろう。
翌明治35年(1902)、満之とともに東京で活動している暁烏につぎの一句を賜って激励している。
君は東都我は京都に時雨けり
ところが面白いことに句仏はこのころ、その東都における暁烏自身の紹介で、正岡子規門下の高浜虚子との知遇をえていた。かねて句仏は子規に傾倒し、俳句の道にすすみでていたが、それを後押したのが暁烏だった。かれは自分も俳号を「非無」と称し、子規を師と仰ぐ「ホトトギス」一門との交流を深めていたのである。
暁烏敏は若いときから詩歌の世界に耽溺し、多くの歌や詩をのこしている。大谷句仏はこの天衣無縫の友と二人三脚の足どりで、宗門の改革運動と俳句の革新運動にふれていったのである。
句仏と非無の、さわやかな出会いと交流だった。