花と森の本願寺〈7〉山折哲雄(YAMAORI Tetsuo)
句仏さんは、代表句とされる「勿体なや祖師は紙衣の九十年」にふれて、短かいエッセイを書きのこしていた。大正9年に東京の広文堂から出版された『法悦の一境』に載せられている「勿体なやの一句」というのがそれである。
明治40年前後のころだ。たまたま越前の橋立に行っている。ここは江戸時代に北前船交易でにぎわった漁港だった。村民は蓮如上人いらいの門徒が多く、北前船の船主たちが中心になって大谷派福井別院の支院まで建てていた。
句仏さんが訪れたのは、その村に騒動がおこったからだった。
北前船交易で産をなした有力門徒の一人に久保彦兵衛という人物がいた。それが感情の行き違いか何かで、突然、東本願寺から西本願寺への転派を申し出て、ゆずる気配がない。剛情で、誰の意見もきこうとしない。
句仏さんははじめ、西だ、東だと称しても、もともとは念仏の同門ではないかと意に介さなかったが、この村には東派の別院もあるからと、説得にあたることになった。法主のお出ましになったのである。
それでも、頑として首をタテにふらない。すくなくとも自分の一代かぎり、存命中はぜったいに許さないといいつのってきかなかった。句仏さんはいたし方なく、万事休すと相手の顔をじっと眺めていた。そのうち微風が海の上をわたるように吹いてきて、胸のうちに響くものがあった。あの一句が、口を衝いて出てきたのである。頑としてゆずらない顔、顔、顔……。どんな説得にも応じようとしない人々の顔が、宗祖の困惑した表情とともに浮かび上ってきたのだろう。
橋立という地名をきくと、つい丹後半島の天の橋立を思い出す。しかしそれより北方の越前海岸に目を移すと、そこにも橋立という地名がいくつか目につく。いかにも曰くありげな魅力的な名称ではないか。
ちなみにこの地で編まれた郷土史の一頁には、この橋立は「日本一の富豪村」だった、と書いてある。